昭和52年10月16日 朝の御理解
御理解 第22節
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ。」
おかげは限りない無限である。それこそ降るようにおかげは下されてある。その降るようなおかげを、私共が受け止めると言う所に、おかげの受けものを作れと言う事になるのです。おかげその受けものを、受けて参りますれば、大きい受け物であれば大きい。小さい受け物であれば小さいことはもう、理の当然であります。ちょっとした事が心配になってたまらん。ちょっとした事が腹が立ってたまらん。これはまあ小さい心の証拠です。ですからいよいよ豊かに、大きな心を頂かせて頂くために、しっかり信心の稽古をさせて貰う。しかもそれが清らかな受けものでなからなければならない。
昨日の前夜祭に、お話を申しましたが、直方の竹内さんという、初めてお参りをされた。親子三人でお父さんが癌のために、今日昨日の言葉に入院をなさる。それでどうぞおかげを頂きますようにというお願いに見えたわけです。その事をお取次ぎをさせて頂いておりましたら、じっとこう受話器をね、電話の受話器を取るところを頂きました。いきなり掛けてもです、やはり神様にお手紙を書きましてもです、神様の住所氏名と言うものがはっきりして、しかも住所氏名を書いただけじゃいかん。
やはり真心という言うなら、切手が貼ってあって、初めてその自分の思うところへ、宛名を書いておけばね。それこそ南米ブラジル辺りでも、手紙の往復が出来るようなものです。ただ宛名を書いただけではいけません。そのようなところにあの、取次ぎの働きと言うものを感じます。同時に私は思ったんですけれども、ははあここで私が取り次がせて頂く事は、このようにして神様が、いちいち受けて下さってあるんだなと言う事でした。ですからほんなら皆さんがね。
親子三人でお父さんの事をお願いなさった、その事は神様が確かに受けて下さったんです。皆さんの願いを、私は取り次がせて頂いた。神様が受話器を取って下さった。私が申しました事を、聞いて下さったと私はお思うのです。そこで今度は聞いて下さっても、それを頂きとめるのは、あなた方ですから一遍お参りをした、お願いをしただけで済ましてはいけません。しっかり人にもの言うように良いです。初めの間から拝み方を覚えなくても良いから、ただ金光様を念じなされば。
心の中に私日々こうやって、ご結界に座ってお取次ぎさせて頂いておる、その姿が心の中に浮かぶでしょう。そしたら言うならその先生に向って、痒いなら痒い痛いなら痛い。人にもの言うように、金光様とお願いなされば良いんです。私もお願いをするからあなた方も、しっかり願って下さいと言うて、お話を致しましたように、とにかく神様が聞いて下さる、受けて下さる。それがところが私はね、まあ神様がおかげは、限りなくそれこそ降るように下さるというのは、そう言う事ではなかろうかと思います。
氏子に受け物が悪ければ、おかげが漏るというのは、私共はそう言う様な確かなお取次ぎを頂いておるのにもかかわらず、こちらの方の受けものが、確かでない所におかげが受けられない。そこは中々難しい、けれどもねこの金光様のご信心は、話を聞いて助かると言うのですから。ですから話を聞いて心が開けるんです。まあ例えて申しますと先だってから、ある方がお母さんと、もう永年にわたって、本当に心から打ち解けてお話をしたことがない。そのお母さんが病院に入院しておられる。
けれどもまあしゅうと親が、病院に入院しておられるから、時々見にいかにゃいけんと思うて、行くけれども行くと神様が、私の顔を見るなりいや、お母さんが腹かきなさる。かえって私が行って、不愉快な思いをされるなら、ほんならもう行かん方が良かと言う様な事であった。たまたま熊谷さんという、今度の婦人総代さんですけれども、からおかげの泉を読んでみなさいと言うて、借りて読まれた。そしてそれこそ翻然として心に悟ったと言うのです。
本当に人間というものは不平やら、不足やらは習わんでも、身についてくるけれども、喜びの道だけは習わにゃ分からんと思うたら、どこからか感動が湧いてきた。神様が喜びなさるんですよね。そう言う事が分かると言う事が。それから一生懸命、おかげの泉を読まれた。そして初めてお母さんの好きな牡丹餅を作って、それこそもうまあ親が入院してあるけん、たまにゃ行かにゃいかんだろうというのじゃ無くてから、本当に心からそれこそ喜びの心、感動一杯でつくって持っていかれたら。
もう何時もになく大変喜ばれた、涙を流して喜ばれた。まあ親孝行とはこんなに見やすい事を、何十年と言う間、どうして自分はこう言う事に気が付かなかっただろうかと言うて、あの喜ばれる。喜び喜ばれるところにお母さんの病気も、不思議なくらいに全快のおかげを頂いて、もうその余りにその、急変された嫁さんにお母さんのほうが、もうびっくりされた。いやもう嫁後だけが悪いのじゃなかった。
自分も悪かったと言う事に気付かせて貰うて、近所のそのお婆さんのお友達に、とにかく、うちの嫁が変わったつには、私は恐れ入ってしまうて、最近合楽の金光様に参りよるげなが、よっぽど教えが良かに違いが無いと言うて、そのお婆さんにその事を話された。今まではそのお婆さんに、うちの嫁御がうちの嫁御がで、話なさったお婆さんがね、反対にそのほめだした。そこでそのお婆さんが喜んだんですね今度は。
お婆さんの嫁さん、それでもう有難うして、有難うしてもうあんたどんが、仲ようなった事がこげん嬉しい事は無いと言うて、もう随分の時間をかけて作った手毬を、二つそのもう私はあのお婆さんと友達ですから、お婆さんの代わりに私はお礼ばあんたに言おうごたると言うてその、嫁さんに言われた。そしてその手毬を一つづつもって見えた。もうそげな段じゃなか、当たり前の事を当たり前にしただけで、と言うてそんなら私のお導きの親である、熊谷さんにひとつと、合楽の金光様にひとつお供えしようと言うて、お供え持ってまいりました。
もうその言うなら赤の他人の、お婆さんのその友達までが感動した。それ以来とっても良い信心が育って行っておりますがね。とにかくお話を聞いた。またはここでおかげの泉を読んだ。心が一変した。素晴らしいと思うですね。なるほど不平不足の道やら、腹立ちの道やらは、習わんでも分かるけれども,喜びの道だけはおかげの泉を読ませて頂くと、習わにゃわからん事が分かった。そこにいうならば、おかげをピシッと受け止める心が生まれるのです。
宮崎の楠田さんというもう事業でもどうにも、ぎっちりばっちり行かない。それをあちらでおかげを受けた方が、お導きをして参って見えた。ここに来るまでとても幾ら何でも、こげな遠いかとこまで参ってきてから、とても金光様にお願いしてけんと言うて、現在のこのおかげがいただける筈はないとこう、まあ思うたけれども余り熱心なお勧めに、夫婦で参って見えられた。そしてここで御理解を頂いておるうちに、分かるんですよね、ここで。目が輝きだすです。
どう言う事かとこれはひょっとすると、合楽の金光様のおかげで、私たちも助かるかも知れんと言う様なものが、そこに生き生きと生まれてくるです。帰り道にそのお商売の、今までは作っても作っても、全然売れなかったものが。帰り道にまたそのずっと寄って帰られた。それをお導きして見えた方も、ご一緒にその自動車で帰られたんですが、直ぐ電話が掛って参りましたがね。もう本当にその細田さんとあの、お客さんの話しば聞きよるとね、もう神様の働きをそこに見るようであったと言うて、言うておられます。
今まで全然売れなかったのが、寄って行く所が寄って行く所へ、その商いが出来て行くわけなんです。それからまあひとつの切っ掛けの様なものが出来て、こら辞めるような段じゃない、こら一丁本気でこの仕事に打ちこまなと言う様な、不思議な不思議な働きが起こっております。その何日後にまた夫婦で参って見えてから、私のほうの家内は、とても人さんには良いけれどもうち前が悪い。
ところがここへお参りをして帰らせて頂いたらね。もうそれこそ何時も家内がにこやかにしておって、もうその変わり方には驚いておりますと言うて、ここでお届けされたら、いや実はうちに主人もそうですと、夫婦がここで言い合えるほどしに、主人が変わった家内が変わったというほどしに、変わった心の状態というものが、成程次のおかげを次々とキャッチしていくと言う事が分かりますね。
だからお話を頂いて、おかげを受けると言う事は、話を聞いただけでおかげを頂いて、今まで知らなかったいうならば、信心というか言うなら、天地の大恩とか天地のご恩徳とかと申されますが。知らん事とは言いながら、天地のご恩徳の中に言うなら、生かされて生きておりながら、そのお礼も申し上げていなかった事に、気付かせて頂いてと言う様な心が開けて来る訳なんです。ところがなかなか人間ですから、そう言う所をいたり来たり、まあお互い致します。
あん時にあげなおかげ頂いたが、今度はこんなおかげは頂かれない。それでは心の状態がもう変わっている。それをね確固たるものにする、おかげの頂けれる心を愈々確かなものにすると言う所に、信心の稽古があるです。信じておったばってんまた疑いだした、けどもまたおかげを頂いて、またと信ずる力が段々確かなものになって来る所に、神様は信ずるものを信ずるという働きが生まれてくるです。もう信心がここには、随分高度なものになって来る訳ですね。
神様を信ずることが出来る、そこに神様から、信じられるという働き。十二分の徳を受けようと思えば、ままよという心になれよと。ままよとは死んでもままよのことぞと。もうこの神様にお願いをして死ぬるなら、この神様にお願いをして右になろうが、左になろうがもう神様任せだと腹が決まる。そういう生き方になると、もう愈々十二分の徳を受けようと思えばという徳が受けられる世界が開けてくるんです。
昨日福岡の古谷さんという方が、親先生にちょっとお見せしてくれと言うてから、あの、これを先生が持って来ました。したらまあこれは、自分は俳句のつもりでしょうね。こんなまあ、俳句がつくってあるのを、ここに書いてありました。「大祭や黄 金の道を踏みしめて」と書いてある。「大祭や高く大きくアドバルーン」大祭や合楽理念確立のとき」と、時は秋と書いてありますね。
という私はこれは、別に句としてどうとかと、なんでもなかったけれど、ここに持ってきてあったからここに置いとったら、今朝から経典を頂く前に、これをしきりに頂くんです。皆さんも一番願っておられる、大祭や黄金の道を踏み分けてと、それこそお金の中に、うずまっておるようなおかげが頂いて見たいと思われるでしょうみんな。おかげが受けられるなら。いわゆる秋の稲穂がこう、黄金色に色づいておる、そういう情景を歌われたのでしょう。
田園教会ですから周囲は皆、その稲穂に合楽へ合楽へと向ってくる。それこそ黄金の波を分けてお参りをして来る様な感じだけれども、是をほんなら御理解を頂くとです。いうなら黄金の道おかげの頂けれる道。言うならばここで先ず貧争病のない世界に住まわなければならんというが。もう本当に合楽にお参りする様になったら、お金だけには不自由した事がないと言う様な、おかげをひとつ頂いて貰わなければならんと思います。
それには「大祭や高く大きくアドバルーン」自分の心が、愈々高められた上にも、高められていかなければなりません。いうならば金光大神の世界。所謂金光大神の、言うならば世界に住まわせて頂けれる。所謂生神を目指すと言う様な、高度な信心になっていかなきゃいけん。それにはね心が小さかったり、汚れておったり。ちょっとした事に腹が立ったり、もうちょっとした事が問題になった様な事ではおかげ人らん。
そこで例えて申しますと、その手立てとしてです、合楽理念では馬鹿と阿呆でと申しております。これは福岡の初代が頂かれたという御教えだそうです。福岡の流れを汲むところの、私共にとってみればこれをひとつ、本気で頂かせてもらう。もう大きな信心と言やこういう、これより大きな信心はないですよ。どんな事があっても。平気で受けていけれるという心。所が中々一遍には大きくなりません。けれども受け難い事をこれが心を大きくして頂いておる神様の働きだと思うて、それを合掌して受けていく。
それを合楽理念では全ての事に、御の字を付けてといっておるわけです。神様のそれが御働きだと、段々分かって来る様になるとです。もう本当に御事柄として、受けて行く事が出来るようになるのです。その御事柄として受けていっておるうちに、言うなら自分の心は、いやが上にも、大きく豊かになって行こうというものです。「大祭や合楽理念確立の秋「とき」私はこの愈々今日の御大祭を境に。
合楽理念の確立。いうならば記念祭を境にです、私共が合楽理念の、言うなら確立を目指さなければならないというわけです。そこで一通り、二通りそれを呼んだぐらいな事で分かる、マスターするというだけなら、誰でも出来ましょうけれども、それを実行すると言う事は、やっぱり難しいと言や難しい。けれどもその気になれば見やすう。私が何時も言っておるように、それこそ嬉しゅう楽しゅう有難う、しかも愉快に行じて行けれるのが合楽理念であります。
その気になればです、ところがおかげを頂く事には、その気になるけれども、合楽理念を自分のものにしようと言う事には、なかなかその気になれません。そこでその気にならせて頂く、そこで私はもう随分前から、記念祭を目指して、あれもこれもとは出来まいから、せめて黙って治めるという、これだけは、ものにしようじゃないかと、まあ話して参りました。これも合楽理念にこの何故、黙って治めなければならないか、いや黙って治めると言う事が、こんなに素晴らしい治まり方になって来るんだという事が説いてあります。三水へんに、無口とかいてある。
治めるという字を、三水と言う事は自然と言う事、自然に起きてくるその事柄の全てをです、無口でそれこそ黙って受けていく。生神金光大神様で受けていく。子供が言う事を聞かん。家内が自分の思うようにならない、家の主人はとこう言わずにです。それを言うたり、したりして見せて、またはそれに習わせようとしても、まあ習うなら良いけれども、習わんならば、ここはひとつ、神様にだけ、自分の心を向けて、自分の心深く、その事を頂いていかなければいけない。
困ったこと、それは自分の心の姿だと思うわけなんです。難儀な問題それが自分の心の中に、難儀をしなければならない内容が、自分の心の中にあるんだと、自分というものを見つめていく、見極めていくと言うのです。そして神様にも詫びもするなら、願ってもいくという生き方、そこにはもう、何とも言いようのないほどしに、素晴らしいことに成就していくんです。とってつけたようなもんじゃないです。言うて聞かせて分からせた様なもんじゃないです。
もう神様が十分な働きをなして下さるのですから。だからせめて家庭のなかでも、仕事の現場においてでもです。いわゆる黙って治めるという、これだけは一つ身に付けようじゃないかと言ってまいりましたんですけれどね。その一つ一つを身につけて参ります。一つ一つが血になって、肉になってまいりますと、本当に黙って納めると言う事が、こんなに素晴らしいんだと分かったら、もう言うたら、愈々馬鹿らしい事になるんです。言うただけ、おかげのほうと反対の事になる。
それこそ降るようなおかげも自分の心の破れが、全部漏らしてしまうことになるのです。どうでも合楽理念の確立のときであり、「大祭や、高く大きくアドバルーン」ね。それは人間のことですから、究極は生神金光大神と言うのが最高の境地でしょうけれどもね、まあアドバルーンぐらいだけ、これから以上揚げられないというところは、やっぱあると思うんです。それはどこかというと、なら金光大神の世界だとこうおもいます。生神というその境地を目指させて頂くのです。
そしてその結果はどう言う事かというと、「大祭や黄金の道を踏み分けて」というほどしの、おかげの世界に住むことが出来るのです。もう本当に限りがないです。無尽蔵で例えば、この御大祭のこのお供を、皆さんがご覧になれば分かるように。お米も半分ぐらいにして、これだけあるです。お酒もまあだとてもそれこそここに、ほんなら、御神前に供えられないほどに、沢山の量で来てますけれども、ではなくてもあれだけ沢山のお酒が集まっております。しかも大祭のときというだけではない。
月次祭たんべんにほんならここに、頂いております。八月の十六日が夏の祈願祭でしたが、あのときにお米が五十俵でした、お供えが。お供えを現物しておったのが。ちょうど御大祭の四五日前にいわゆる四、五日前にお米がまだ随分残っておるけん、まだ二月しかないから。まだ十俵二十俵は残っておると思いよった。そしたら久富先生がもう六俵しか残っておりませんよとこう言うのです。
しかも、六俵は大祭までには食べちしまいますよち。はっはは「ほう」ち私が申しましたけども、しかし有難いことですね、二月間で五十俵のお米が終えておる。もう限りがない、それこそ米一粒だに、ここでは買わないのです。ほんなら無くなったかと言うたら、またこんなに沢山神様が集めて下さるんです。そういう世界があるんです。そこでいうならば、ここでは私がおかげの受け始めですから、皆さんもそういうおかげを頂いてもらうために、なら私が言っておる事を、皆さんが自分の物になさる。
いよいよ合楽理念の確立を目指させて貰うて、神様が降るように下さってあるおかげです。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければ、おかげが漏るぞとあるのですから。愈々受けものを確かのものにして行く。そして今日の御大祭をひとつの境として、何をかひとつです。自分の心にピシッと頂きとめて、自分のものにする。もうそこにはおかげを頂いたと同じです。
神様の心にそれこそ不平不足を言う道は教えんでも、自分で習うて行くけれども、分かるけれども喜びの道は習わずには分からないと言う事が分かっただけでも、神様は感動して信心もないのにいうならば、感動を与えておられます。その感動がもう次のおかげに繋がっておられます。いよいよ喜びの道を体得させて貰う。それをもうそれこそ正しく間違いなく絶対と言う事を、私は仕えながら伝えておる事が、ここで言う合楽理念であります。愈々合楽理念の、まあ行者ともならせて頂く覚悟で、合楽には通うてこなければいけないと思うですね。
どうぞ。